制作について

 

 古来、日本の芸術は作家個人の意図や技術よりも、いかに自然と調和して

行くかということを大切にしてきました。

 技術や人の手を加えず、あるいはそれらを極力表に見せないように、自然

( 素材 )のありのままを見せることこそが尊ばれました。

 

 そうした考えは絵画に限らず文学や建築においても同様で、全てを表現

し尽したり、人の意識で埋め尽くすのではなく、むしろ手を加えない部分を積

極的に作品に取り入れようとしたのです。

 

 それは作品が自然と連続する部分を保ち「外部と内部」「主観、客観」

の区別をすることなく自然(世界全体)の一部たろうとしていたと言えます。

 

 このような美意識の底流には、日本人の伝統的な宗教観(死生観)が

あります。すなわち人は死後、その魂は山や森の奥深くに帰り、長い時を

かけて浄化され、カミ(祖霊)となって自然へと回帰していくと考えられて

いました。

 

 また仏教では、その修業の究極的な目標として悟りや救いを求めます。

それは何ものにもとらわれない状態,「無」や「空」の状態となることで、仏

との合一を目指すことでもあります。

 

 そしてここでいう仏もまた、日本人にとっては自然そのものに他ならず

自我(個)が解体し自然(全体)への回帰を意味します。

 

 私はこうした日本古来の美意識や宗教観、世界観を背景に制作して

 います。

 ゆえに私は自身の自我や主体性を極力抑え、 余分な要素を徹底して

削ぎ落とし、意識を画面に融解させていくことで、自らが作品の一部と化

していくような、 精神と物質(素材)が融合し、自然の一部へと回帰していく

 ような感覚に陥ることを目指しています。

 

 そうすることで個の意思や表面的なイメージを超えて、作品がひとつの

小宇宙として、より大きな宇宙(全体)への回路となると考えているからです。

 

 禅僧が座禅をして深く瞑想するように、私にとっての制作はある種の宗教

的、精神的行為です。

 

  タッチをひとつひとつ積み重ね、幾重にもオイルや絵具を塗り重ねる。

画面の隅々まで執拗にタッチを塗り重ねるという作業の中で、 私の意識は

徐々に画面に沈潜し、無意識のうちに自我や主体性は削ぎ落とされていき

ます。

 

 色や形体などの絵画的要素は最小限に抑えられ、イメージを極力排除

することによって、逆に見る側の想像力を緩やかに刺激し、激しく感情に訴え

るのではなく、ゆっくりと静かに精神の奥深くまで浸透していくような気配や余

韻が画肌から立ち現われてくるのを待つのです。

 

 ここにいたって技術は、目的を達成するための手段ではなく、手段それ

自体が精神性を帯び、目的と化してゆきます。

 

芸術は、本来人間が神や宇宙といった超越的なもの、あるいは異界と繋が

ために生まれました。

 しかし近代西洋で個人主義が生まれ広がるにつれ、芸術の概念や意味

が変化し、ついには「芸術とは個゜の表現である」という大転換が起こり、

以降の芸術の前提となり、現代ではそれは自明となっています。

 

 しかし私はその最も原初的で且つ現代にこそ必要な役割として、芸術が

まだ宗教と不可分であった時代に果たした役割、すなわち人間の精神に直

接はたらきかけ、内省を促したり、内面を浄化したりすることであると考え、

これこそが芸術の本質でありそうした力を取り戻したいと考えています。

 

 それゆえ芸術は鑑賞するものではなく、体験するものであると捉え固定的な

 観念に縛られず、作品(作家)が観る側に一方的にメッセージを発するのでは

なく、作品との出会いを通じて双方が互いに共鳴し合い、作品という小宇宙を

通して、もっと大きな世界と通じ合えるような感覚を呼び起こせたらと考えて

います。